タイトルをどこまで信用できるのか、にするか、信用すれば良いのか、にするか少し悩んだ。
信用できるのか、とした場合は科学的根拠に基づいて判断する必要があるので、おそらくは殆どのことについてその科学的根拠というものは不確かだと考えた。
信用すれば良いのか、だと不確かな要素があることを前提として判断することになるので、リスクコントロールなんかが重要になる。
何故こんなタイトルで書いているかというと、原発処理水の海洋放出の問題で、ヒロユキ氏が反対派の言った、それなら処理水を飲めるのか?という発言に対して、処理水が飲用できるかとそれが危険かということを同次元で語ることはそもそもナンセンスだという言葉が気になったからだ。
確かに、処理水が飲めるかと言うことと、その処理水が安全なのかかと言うことを同意義と捉えることは間違っているが、飲めるのかと発言した人にしても、海水をそのまま飲めるかと、問うたわけではない。
海水に対して飲料水を作る工程を経た上で飲めるのかと問うているのは暗黙の前提とすべきだろう。
そこで肝心なのは、安全だという科学的根拠を信用できるのかということだ。
安全だという主張が信用できるか否かで切り分けるならば、安全であるということは証明できない。
信用すればいいのか、となるとリスクを理解した上で、そのリスクが許容できるかどうかの判断になる。
中国で日本産の食料が危険だと言って排除しようとする動きは、日本が示す安全性がリスクゼロだと判断できないからであって、嫌がらせではない。
もちろん、レンガを投げつけたりの抗議行動については、許されないものもある。
でも、日本近海で採った海産物が中国の食卓に並ぶであろうことは想像に難くないのだが、そんな海産物も中国国民は食べないのだろうか。
海が汚染されているという意味では、マイクロプラスチックの問題の方が深刻だと思うのだけれど。