JAPANクオリティを裏付けるモノの実態

良い意味ではない。
太平洋戦争後の日本製品は世界からみて安かろう悪かろうの代名詞だった。
だが、その状況は資材も技術も無いのだから仕方のないことだったのかも知れない。
最近、日本の提供する製品、サービスのクオリティが酷いことになっていると感じる。
遊園地でジェットコースターが停止したり、電車事故が起きたりなんてのは20年前の中国で起きるのであれば当たり前で、日本人は中国製のサービスやモノを鼻で笑い、やはり日本のクオリティが最高だと考えていたと思うし、私自身もそう捉えていた。
今でも中国製のものよりも日本製品のほうがクオリティが高いものが多くあることは事実だが、全ての製品、サービスにおいてそうなのかとは言い切れなくなっていると思う。
2024年の始まりに、夫婦箸を買い替えた。
それまで使っている箸が剥げてきたとか、先端が折れたとかそんなことはないのだが、久し振りに箸を買い替えようと思い、本漆塗りの箸を購入した。
1膳が1500円ほどの箸なので廉価品ではあるが、百均などの激安品でもない。
普段使いにるには丁度よい価格の箸を選んだつもりだった。
箸は1膳がバラバラにならないように、シールでまとめてあった。
使うためにこのシールを剥がしたのだが、粘着剤がなかなか取れない。
消毒用アルコールをティッシュに染み込ませて拭き取ってみても、粘着剤は取れない。
ティッシュに少し色が移った感じもあることで、おかしいと思い始めた。
本漆は完全に乾燥していれば溶剤で溶けることはありえないのに何故色落ちするのだろう。
ハンドクリームを薄く塗ってティッシュで強くこすってようやく粘着剤は取れたのだが、ティッシュには箸の色が付いてしまっている。
ということは、この箸は本漆塗りではないか、もしくは本漆塗りだが完全乾燥していないということだ。
数年前から薄々感じていたことだが、日本製品の品質はいいものだなんてことを鵜呑みにしてはいけない。
おそらく、日本の中書企業製品からクオリティは徐々に低下していて、もしもそれが大企業が使う部品であれば、その大企業が作る製品のクオリティも低下している。
代表的なものは、自動車部品。
1部の部品の品質が悪いために、それを使った車に対してリコールを行ったり、販売停止にしたりしている。
自分が社会人となったころの日本企業は品質改善に真剣に取り組んでいた。
それが、ISOという新しい基準が出現して、品質管理の手段についての規格が定められた。
日本企業は品質保証が可能であるというお墨付きが欲しくてISO取得に飛び付いた。
元々日本工業規格JISという、工業製品に関する規格は存在していたが、これに加えてISOという認定が加わった。
ISOはあくまでも手段がシステマティックに管理されていることを認定するものであり、それ自体が品質保証をするものではない。
当然、ISOに定められた満たすべき作業工程に沿った作業を行っているかどうかも監査対象だ。
だが、その作業において、品質を満たさなかったものに対してどのように処理するかはどうなっているのだろう。
定期監査で定められたシステム維持がされていることは調べられるが、品質についてのチェックがされるわけではない。
企業では監査に対する予行演習が行われて、取得した資格を維持することが主目的となり、品質を確保することは二の次になったのではないか。
資格を剥奪されることは取引上致命的だが、品質が低下しようがそのことが顕在化したことにより事故さえ発生しなければ問題なく、品質を確保しているのは形骸化しつつあるISO資格というただの絵に描いた餅という洒落にならない状況に陥っている企業も明らかに存在する。
DAIHATSUが安全基準認定を誤魔化していたというのも、資格至上主義が原因だと言っても過言ではない。
不正が30年前からあったというのであれば、まさにISOが広まった時期に一致する。
日本の農作物、食品が中国製のものよりも安全だという神話も眉唾だ。
原発の冷却水の放出がされ、日本の海産物を中国は危険として全面禁輸とした。
海産物が危険だというのは、全く根拠がないことだと日本政府は主張しているが、果たして正しいのはどちらの判断なのだろう。
数十年経過して、安全ではありませんでしたとなったら、安全だと言われてそれを食べ続けた日本人だけが健康を損ない、長期裁判で遺族への僅かな補償がされるだけだ。
僅かな補償というのは、金額の多少ではない。
失われた健康、生命、経済負担はは測りきれない。
日本ではメタンフェタミンを元気になる薬、ヒロポンとして合法的に販売していたことがある。
むしろ、生産効率を高める強壮剤として積極的に使用されてきた。
このことは、今では開けてはいけないパンドラの箱であり、製造元も製造許可を出していた側も何一つ刑事責任に問われることはない。
明治以降、戦争を繰り返した我が国が誇り高い国なのかは各人が正しく見極める必要があるのだ。