何度かこのブログでも書いているが、昔は年金を貰っていた人達にとって年金は生活費というより、主たる用途はお小遣いだったように思う。
家賃、光熱費、食費は同居している家長が負担し、家計にお金を入れることがあったとしても年金の全額を生活費として入れることはあまり無かったのではないだろうか。
自分の服だとか、病院代だとか、趣味、孫への小遣い。
そんなことに年金が使われていた。
ずっと働いていれば厚生年金も貰えて、亡くなった時にはそれなりの現金を残すこともできたろう。
つまり、高齢者が資産を多く持っている人が多いという幻想があった。
家のリフォームだとか、車の購入だとかまとまったお金が必要な時には同居している高齢者がある程度経済的に負担するという図式が、成り立っていたことは予想できる。
核家族という言葉は、自分が小学生だった頃に社会科の授業で教わった言葉で、未成年の子供とその親の2世帯で構成された家族のことを指していたと記憶している。
何故、核家族化がここまで進んだのか。
それは、世帯数が増えることによる住宅建築を日本経済も政府も期待したからなのではないかと今更ながら思う。
住宅はさまざまな資材を大量に消費する、高度成長期の経済のカンフル剤の役目を持っていたことは間違いではないだろう。
当時は経済がいつか頭打ちになるなんてことは考えてもいなかったし、そんな未来の心配をするよりは、勝ち馬に乗らなければ、経済成長に乗り遅れてしまうことのほうが悪手だった。
結果、作られた住宅では家庭内でのプライバシーを守るために、子供1人ずつに部屋を与えて、子供たちは大人になると親との同居を拒否しだした。
核家族は更に進化し、今の子供からすれば核家族でいるのは18歳まで。
それ以降は一人暮らしが始まり、結婚して子供ができれば新たな核家族が生まれるし、一人暮らしで一生を終える人も多い、どのくらいの割合なのか解らないが、老親と同居して再び過去の核家族を復活させる人もいる。
人は1人で生まれて1人で死ぬなんてことを言ったりするが、その過程では1人ではないし、死んだあとも1人のまま勝手に朽ちていいわけでもない。
死体は物理的に何らかの行政処置をしなければならないし、骨になっても勝手にゴミにだすこともできない。
お墓の問題もある。
生まれたことが幸せだと心底思える国から日本はドンドン遠ざかっている気がするのは自分だけなのだろうか?