そら豆が

直播きしたそら豆、発芽したが鳥にほじられたのか、3株しか育っていない。
仕方無いので自宅でポットを使い苗を作ることにした。
日当たりが良くないので徒長ぎみだが、何とか7株の苗が育っている。
これで直播きのものと合わせれば10株なので、そこそこの収穫が期待できる。
そら豆は越冬野菜なので、北陸であれば雪の下で冬を越す。
年内にはポットから定植しようと思っていたが、けっこうな雪が降った。
苗の大きさとしては、寒さに1番強いと言われる背丈にはなってきている。
年内に晴れ間があれば定植してしまいたい。

ガースーです

菅総理がインターネットの生放送でいきなり、ガースーですと言った。
一体誰がそんな呼び方をしているのかわからないが、チョットニヤけた感じで言っていたのでご当人はまんざらでもないのだろう。
マスコミなんてものは、真実を伝えるものではないと、思っている。
これを伝えると、皆が興味を示すだろうという視点で事物を捉え、報道する。
ステレオタイプの典型だとしか思っていない。
いわゆるテレビ世代の50代以上は未だにテレビの報道が公正で色付けされていないものだと思いがちな気がする。
子供たちの世代では一体テレビ報道をどのように捉えているのだろうか。
報道もエンターテイメントであり、共感しやすいものがあたかも世論の主流だとばかりに偏向した事象を伝えると思っているのかも知れない。
伝える側からすれば、正しい報道を行っていると言うだろう。
アメリカ型の報道で、キャスターが自分の考え方を伝えるのが良いのか?
アイドルがメインキャストの1人で、意見を述べるニュース番組にどれだけの人が信頼を置くだろう。
いずれ、報道ドットコムとかそういうサイトができて、どの報道がどれだけ真実を伝えていたのか、平等だったのかとか、どのキャスターの考え方、物事の捉え方が正確だったのかとかの情報をアップしていくかも知れない。
行政について、どの議員がどんな公約を掲げて当選して、どれだけ実践できたのかをあげているサイトがあるらしい。
しかし、地方議員の選挙など所詮は地縁で決まると言ってもいい。
素晴らしい議員であることなど、誰も求めていない。
自分にとって都合の良い議員でさえあれば良いのだ。
地縁ある人達にとって都合の良い議員とは、政務活動費の使徒がおかしかろうが、そんなことはどうでも良いのだ。
道路のアスファルトがひび割れたら、すぐに直してくれるのが良い議員。
そうなるとさしずめ良い総理とは、国民が困った時に金を配ってくれる総理という事か。

雪が降った

コロナ対策で電車は停止している間、ドアを閉めないでほしいとアナウンスしている。
しかし、雪が積もり始めたら、乗客はドアを閉め始めた。
確かに、ドアを開け放していると寒い。
コロナ感染者が車内にいたとしても、その人が飛沫も飛ばさず、やたらとどこでも触れていくて、電車の乗客が目や鼻や口をこすらないですぐに消毒するならば、換気などしなくても良いかも知れない。
県内の新規感染者が毎日数百人とかにならないと、リスクよりも快適を選ぶことを責めることは難しい。

時短協力金

時短営業に協力した飲食店に一律で100万円の協力金を給付することが決まった。
期間は約1ヶ月。
これでも文句を言う店もあるだろうし、元々の利益よりも多い給付金に喜ぶお店もあるだろう。
結局、バラマキをするのだ。
もしもだ、ロックダウンすることになったら、一体いくらの給付をするのだろう?
野菜の生産農家など、休むこともなく、価格の下がった作物を出荷するしかないのに、コロナ補償は無い。
来年度もバラマキのために、大量に国債が発行されるだろう。
金が余ればインフレになり、物価は上がる。
しかし、世の中の金がダブついたところで会社員の収入が比例して増える訳ではない。
そして、国内金融を制御するだけの力がこの国には無いことも薄々わかりはじめている。
しかし、国債の引受先が日銀である限り世の中の物価は上がらないまま、バラマかれた分だけ経済が回るほうが良いのかもしれない。
国際金融が日本をデフォルトと認定したら、足りない食糧の分だけこの国がスリムにならざるを得ない。
絶対的な価値があるものだけが、認められる時代への先鞭となるのがコロナなのかも知れない。

雪ダルマ

北陸では、冬になると天気予報に雪ダルママークが並ぶ。
雪の結晶を模した記号もあるが、時候の話題では、週間天気予報に雪ダルマが並びだしたね、と言うことが多い。
いよいよ富山でも天気予報に雪ダルマが並び始めた。
今週は水曜日まで雪ダルマが並ぶ。
年内に雪が多く積もることはほとんど無いので、地面にはそれほど積もらないと思う。
元日に雪かきをしなければいけないようなことは、雪国と言えどそんなに滅多にあることではない。
去年は全くと言っていいほど、雪が降らなかった。
今年はどうなるのか、正直こればかりはなってみないとわからない。
雪が降ることで、雪解け水で川に水が供給されるのだと、小学生の頃に習った記憶がうっすらとある。
真偽は今となっては微妙だとしか言えない。
確かに積もった雪が少しずつとけて、川の流れの一部にはなるかもしれないが、川の水のほとんどは、地下水なのではないか。
だが、その地下水の元はといえば何年か前に降った雪解け水かも知れないし、それは自分にはわからない。
平野部での大雪にはならないことを祈る。

世界コロナ7000万人

1000万人の増加速度は1日速まった。
年内に8000万を超えるのはほぼ確実。
一方で海外ではワクチン接種が始まった。
日本では来年の春ころから始まるらしい。
これで、増加は抑えられるのか。
既に接種が開始されているイギリスでの動向が気になる。
新たな副作用も見つかってくるだろう。
効果がいつまで続くのかもわからない。
だが、一歩明るい方向に足を踏み出した。
オリンピックにあわせたカレンダーとなるのはこれで2年連続になる。
来年開催できなければ中止。
開催の可否はワクチンの効果次第。
規模を小さくしても開催したい思惑と、万が一のための医療体制をとるために、どれだけのリソースを確保しなければいけないのか。
海外チームにも医療スタッフは帯同するだろうが、設備に関してはホスト国が準備しなければいけない。
問題山積み。

脱家庭菜園

今、家庭菜園をしている場所は、自分の土地ではない。
妻の実家の空いている土地に、畝をたてて野菜を育て、果樹を育てている。
その土地はいずれは使えなくなる土地だ。
そうなると、めんどくさいと言いながらもやっている家庭菜園はできなくなる。
新たな趣味も模索しないといけないかな。

師走

先生が走るほどとか、坊さんが走るほどとか、そんな話ではない。
生まれて54回目の12月だ。
もちろん産まれてから数回の12月などは、何の感慨も、記憶も無い。
小学生くらいからは、クリスマスが楽しみだったりしたが、そんなに楽しい思い出があるわけでもない。
朝晩が随分と寒くなる頃としか思えないのが師走だ。
社会人になってからは、車を運転するので雪道は嫌だという記憶しかない。
それでも、1年を振り返るという意味では師走は大切な役目を果たすのかも知れない。
少し早いが、今年を振り返ると、報酬の面では良かったと思う。
仕事内容としては、インフラエンジニアとして少しは成長したかなと思える。
一方でソフトウェアエンジニアとしては、成長のない1年だったと言える。
プライベートでは、子供たちを社会人として送り出す最後のラストスパート。
来年の3月で下の子が大学を卒業する。
泣きたくなるような仕送り、学費負担が無くなるのだから、喜ぶべきだろう。
全くない老後のための貯金を今から始めるのだから、生活に余裕ができるわけでもない。
それこそ、5年後には野垂れ死にするのではないかとすでに不安でいっぱいだ。
まぁ、そうなったらそれが運命だと思うしかないし、誰かのせいでもないのだから、諦めるしか無いだろう。
これからの人生の目標としては、2030年まで生きること。
生きていれば、64歳。
身体もガタガタだろう。
何を楽しみに生きているのか想像もつかない。
10年先を見据えて生きていく。
それが過ぎれば、次は5年先を見据えて生きていく。
その先になると、1年先を見据えて生きていく。
そんなふうに積み重ねる人生なんだろうと想像している。

ゼロトラストという考え方

現在、ほとんどの企業がネットワークを介した外部からの悪意ある侵入、攻撃に対して、ファイアウォール、VPN、許可されたユーザ認証といった手段を講じている。
いずれも、入口から入ることに対してのチェックであり、一旦接続や侵入に成功さえすれば内部ではやりたいほうだいというケースが多い。
最近、ゼロトラストという言葉を聞く。
これは、全てのアクセスに対して信用しないという考え方に基づくものらしい。
つまり、ネットワークを介して別のネットワークやPC、サーバーに接続する場合、それは信頼できないアクセスとしてみなすので、都度安全な接続であることを証明しないといけないということらしい。
現実問題、結局はこの時点で認証が必要になり、パスワードや生体認証、2要素認証などの認証が行われるのだと思っている。
例えば、全ての外部サーバごとにパスワードを設定するとして、そのパスワードを管理する人がバラバラのパスワードにすることなどあり得ない。
定期的にパスワード変更が必要ならば尚更、パスワードは使い回しされるだろう。
ゼロトラストが現実的なアプローチに基づくようになれば、普及するとは思うが、まだまだ先の話だと思うのは自分だけだろうか。

冷え込んだ朝、冷え込んだ国

車のガラスが凍るような朝、救急車の出動が増える。
布団から出て、トイレに行ったら倒れるとかそんなことが多いのだろう。
自分の親も、妻の親も高齢者だ。
幸い、妻のところは妻の姉が同居。
自分は両親が健在なので、まだ安心できる。
だが、どちらかが亡くなったら痴呆も心配だし、寒い日も暑い日も心配だ。
両親とて、二人でいればまだ心強いだろうが独り身となるといろいろと不安なことも増えるだろう。
人生100年の時代と言うが、親世代でない我が身に照らせば良い人生を過ごせるのだろうか。
独居老人の孤独死が当たり前になってきて、見守りサービスが大人気になったとしても、死んだことがわかるのが早まるだけ。
人間、生まれてくる時も死ぬ時もひとりだというが、そんな風に割り切ることができるのか。
野垂れ死、昔ならば住む場所もなく転々とした者が道端に力尽きて死んでしまうことを言ったのだろう。
現代では孤独死。
しかし、この孤独死すらも、雨風に晒されずに死ねたことが救われるという時代がくるかも知れない。
老人になって、住む場所を無くしてまさに野垂れ死にする人が増えてしまう可能性も少なくない。
亡骸にカラスが群がり、あぁ死体でも在るのだろうと驚かなくなる。
もしくは、カラスを追い払い、何か金目のものは無いかと死体から身ぐるみはぐ人がいたり。
そんな世の中になるわけないなどと本当に思えるだろうか。
少なくとも1600年代の途中まで、日本でも人は人として扱われることなど無かった。
米国にしろ、奴隷がいてそれは人としては扱われなかった。
それほどまでに、日本という国は世界が羨む国でなくなってきている。
その話はまた別の機会に。