テレビ録画

テレビ録画は外付けのハードディスクというのが主流だと思います。
そのハードディスクの寿命がきたらしいです。

今のは2代目で、diskの使用率は30%未満で推移している。
寿命だと思ったのは、画像と音声がズレて、画像が停止するものが出てきたからです。
多分、不良セクタが出だしたための現象だとにらんでいます。

見た録画番組は削除しているのですが、不良セクタ領域を使わせないよううに、再生不具合のあった番組は削除せずに残すことにして様子を見ることにします。

ハードディスクは領域をまんべんなく使うのではないのかなぁ。

日本の長期安定時代

江戸時代。
400年、秩序が保たれていた時代だ。
人間がみんな平等だなんて幻想は誰も持っていなかったけど、異教の思想に心酔している人もいて、適度に社会のガス抜きができていた。
もちろん、悲惨な人生も沢山あったし、不正や悪が無い社会は無い。

今は、ほとんどの人が自分たちは原則平等だと言いつつ、平等であると言うためには経済力が必要であることを理解している。
そしてそれは原則平等のオプションである自由と言われる部分なのだけれど、当たり前過ぎて持たないことは努力が足りない結果とか無意識に考えているかも。

自分が危機的状況になった時には、今の危機的状況の人と同じく、叫ぶ力も叫ぶ権利も無くしているとは考えない。

あぁブラックな考えだな。

金融の将来から見る

金融は人から安く金を借り、人に高く金を貸して、その差が利益につながる。
当たり前のことだが、金融機関は人に金を返す時にも手数料を取る。
atm手数料のことだ。
機器の維持管理にはお金がかかるのだから、一部を負担してくださいというのが言い分。

企業に金を貸して、そこに人を送り込む。
取引先企業は出世街道から外れてしまった行員の天下り先の確保も兼ねている。

地方銀行は都道府県ごとに複数あると思うが、将来的にはほとんどの県でひとつの地方銀行しか生き残れなくなるとか。
ひとつの銀行が無くなることは地方経済に大きな影響を与えるというのは誰にでもわかる。
なので、都市銀行が統合してメガバンクができたようなことが地方銀行でも起きるのか。
それとも小売業のように、大手が地方の銀行を淘汰していくのか。

ひとつの巨大な集合体ができるが、マクロで見れば人員や施設は縮小され、統率される。
これは金融や企業に限ったことでなく、日本の歴史でも、おそらく他の国家の歴史でも同じようなことがおきていて、ヨーロッパなど国の境界が陸続きの地域では国家間でも同じことが起きただろう。
外敵に対抗して生き残るためには、大きな集合体となるしかないことが今までの歴史なんだろう。

北陸の冬支度2

前回の続き。
自治会の全世帯が加入していない組合。
メンテナンス費用を自治会が負担するのが難しいのだ。
消雪組合か個人で負担しろと言う人も少なからずいる。

しかし、このメンテナンス費用はけっこうする。
バルブ交換が必要等になると、工事も発生するため、最低でも数万円かかる。
自宅の敷地内に消雪装置があるわけでもない。
自宅前の道路の雪を溶かすためであり、恩恵はそこを通る人や車も受けている。
さらには、消雪組合員として年間数千円の費用負担もしている。

設備の老朽化は避けられない。
大規模な補修のための準備は組合でも行っているが、小規模な補修に関しては自治会に。
年間補修費用も計上していくのが良いのだが、複数の自治会が幹事を行っていて、それぞれ事情が違うだけに、なかなか難しい問題だ。

北陸の冬支度

一般的な樹木の雪吊ではなく、消雪装置の冬支度。

北陸などに冬に行ったことのある方は見たことがあるかも知れないです。
道路から水が出て雪を溶かすのが消雪装置です。
雪が降り出す前に、水が出るかとかバルブの詰まりが無いかを点検。
水道管に溜まったサビや泥を排水する。
民間管理の消雪装置は管理組合がその作業を行う。
管理組合のお世話は消雪組合に入っている住民の自治会が複数あるので、そこの役員が行う。
自治会によっては、全自治会員が消雪組合に加入している場合もあれば、半数に満たない自治会もある。
自治会地内の設備に関するメンテナンス費用はその自治会負担となる。
ここが、けっこう面倒な問題となる。

学校の統合は決定的な人口減の事実

地元の小学校の統合の記事が新聞記事に載った。
数年前にもあった話で、開校140年の記念品として、名入りで長く使うものは無駄になるという意見があったりした。

子供たちが少なくなっている一方で、待機児童問題があったりするわけだ。
ただし、地元では待機児童問題なんて聞いたことがないので、大都市では子供たちはそれほど減ってはいないのかも知れない。

児童に数がピーク時の4割ということだから、単純に考えれば、50年ほどすると、人口も4割に減るだろう。
そうなると、機能不全になる行政も格段に増加するだろう。
公務員の非正規雇用が増えるのかなぁ。
それとも超人気な就職先として君臨するのか。
地方公務員が一番人気の世の中は、未来がないよね。
彼らの仕事も大切だけど何も生産しない、何も進化しない、競争がない。
ちょっと辛辣すぎるか。

万博

幼すぎて、断片的な記憶しか残っていないが、1970年の大阪万博には両親につれていってもらった。

当時の記録映像にあるようなものは全然覚えておらず、雨の日でどこかのパビリオンで吊橋のようなところを渡るのだが、下がマグマのようになっていて怖くて泣いていた記憶しかない。

2005年の愛知万博は、子供たちを連れて行った。
10歳と7歳だったので、大人になっても少しは記憶が残っているのではないかと思う。
ロボットなどの最新技術に触れさせてやれることに、妙に気分が高揚した。
1970年の万博の時は、自分の両親もこんな気持ちだったのだろうが、当時4歳でワガママだった自分は何故こんなに混雑したところで行列につかないといけないのだと、泣いていたのだから、今さらながら申し訳無いと思う。

2025年に再び大阪での万博開催が決定した。
長男は30歳、次男は27歳になる年なので、自分や妻と万博を見に行くことはないだろう。

妻とふたりでノンビリと万博を見て、大阪で暮らす長男と夕食でも一緒にできれば良いなぁ。
最初のは記憶にほとんど無いとは言え、このままいけば人生で3度も日本開催の万博を経験することができる。
嬉しい限り。

二次電池

我が家では二次電池がメインになっている。
以前はアルカリ電池を使っていたが、電池式のデジカメの電源として使うのに、購入したのがキッカケだった。

単価は高いが、充電回数で考えれば割安だ。
当時はエネループの初期モデルだったが、充電回数を超えることは一般家庭では不可能だろう。
そして、時計とかライトとかリモコンに使うのは二次電池にはオススメできない。
過放電になってしまうからだ。

大容量タイプも含め、かなりの本数を使っているが、おそらく充電回数を使い切ることなく全ての電池が劣化するだろうと思っている。

電動歯ブラシが、電池性能を知るのには適している。
ヘタってきた電池はすぐに交換が必要になる。

意外とコンロの着火用電池も差が出る。
着火用電池が使えなくなると、消火される。
単一アダプターで単三電池を使っているので、容量が少ないのだが、電池の個体差が出る。

誰か本当に充電回数回数を調べた人はいないのかなぁ。

結審してしまった

徴用工が強制連行されて、労働させられていたことに対する裁判が原告勝訴で結審した。

最高裁での判決なので、上告はない。
企業が原告に賠償金を払わなければいけなくなった。
こうなってしまったら、日本政府が遺憾の意を示してもどうにもならない。
これで判決が覆るようだと、韓国の司法は形骸化してしまう。

賠償問題はクローズしているとの認識は国家賠償だけの問題で、個人損害は別であるというのが、韓国で判例となった。

となると、現在審議されている同様の判決は判例に従う。
さらには上告さえ認められない事態も起こりうる可能性がある。

労働していたのが軍需工場だったとして、徴用を行ったのはその企業だったのか。
労働に対する対価が支払われていたのか、対価が正当なものだったか。
対価が正当なものだった場合、企業は善意の第三者であり、被告は徴用を行ったものになるのではないか。

そして徴用を直接行ったのは実は日本人では無かったのでないか。
双方合意に基づく取引であったという証拠があれば、こんなことにはならなかったのにねぇ。

被爆に関する訴訟も行われているようだけど、その被告は原爆投下した国じゃないの?とか思ってしまう。

今なら日本の方が国力が高い。
しかし、20年後とかだと韓国の国力の方が高い可能性もある。
恐ろしい。

年賀状

年賀状を出すのは、私の世代では当然みたいなところがある。

とは言っても、パソコンで表書きも裏書きも印刷するだけなので、どれだけ華美なデザインであっても味気無い。

年賀状に必ず手書きで一言が添えられているものもある。
あぁこんな筆跡だったのだと思いながら、相手の顔が思い浮かぶ。
もちろん何十年も会っていない相手も多く、今ではすっかり風貌が変わってしまった人もいるだろう。

学生時代の同級生は、卒業後に数年間年賀状を送って、返事が来ない人にはこちらからも年賀状を出さなくなっており、すっかり疎遠になっている人もいれば、毎年欠かさず年賀状のやり取りを続けている人もいる。

今や疎遠となった彼らは年賀状自体、誰ともやり取りが無いのか、会社関係だけはやり取りをしているのかわからない。
数十年も経てば、現住所だって変わっている可能性が高いし、実家ですら届かなくなっている可能性もあり、今さら年賀状を出しても受取人不在になるものもあるかも知れない。

やがて、現役世代でなくなった時に自分も含め、どのような交流が残るのだろう。
同窓会の一体感がほしいと思うわけではない。
損得勘定なしの付き合いができていた頃の知人との交流が途絶えてしまうと、何だか人間が矮小になった気がしてしまう。

たかが年賀状、されど年賀状。
今、細くても繋がる縁は切らずに続けたい。