自分の声

誰もが、初めて自分の声を録音して聞いた時にはビックリしたことだろう。
ましてやそれが歌っている声なら尚更だ。
最近の若い人たちはどうなのかわからないが、大人になると自分の声を聞くことなんて無い。
仕事で、テープ起こしでもないが会議の内容を録音したものを聞くことがあった。
自分がホスト的な役割で進めたテレビ会議でのレビューの議事録を作るために聞いた。
本来なら、聞き手でいるだけの人が議事メモをとってくれるのが普通だと思うのだが、ワタシはパートナーと言うなの外注。つまり1番下っ端なので、誰もそんなことはしてくれない。
でも、立場上仕方ないと思っている。
勝手なことを議事録に適当に書かれても困るので、渡された1時間半の録画ファイルを全部確認しなおす。
議事録には指摘されたことと、それの対応について書いていくので会議時間の倍くらいの時間がかかる。
その後ベンダーに至急確認しなければいけないことをまとめてメールで投げたりでなんだかんだとさらに時間がかかった。
雑務から、設計までやらさせてもらっている。立場上仕方がない。

本題に戻ろう。
数十年ぶりに、自分の声を聞いた。
そして、怖ろしいことに気付いた。
詳しくは書けない。
自分にしかわからない心の声が録音されて聞こえているという話だ。
あぁ怖ろしい。

避難勧告と緊急事態宣言

この状況で自然災害による避難勧告が出たら、あなたは体育館などの施設に避難するだろうか。
ライフラインが確保されず、食料品や水などの支給が避難施設などの拠点にしかされないなら、避難するしか選択肢は無いかも知れない。
だが、実被害が出ていない状況で被害の発生確率だけはほぼ100%だと判っているが、いつ被害に合うかわからないとしたら、どうだろう。
避難場所は準備するが、食料品、水は支給できないので公助はアテにしないで自助、共助で何とかして下さい。
こんなことは、ほんの100年前には当たり前のことだった。
政治家の感覚が古いままなのか。
市民の感覚がユルクなり過ぎたのか。
搾り取られて、丸腰で災難に立ち向かうように仕向けられたと感じるか、裏をかいて、生き延びてやろうと考えるか。
まさに、ある意味、緊急事態に避難勧告に従うのか、選択は迫られている。

2020年6月の読書

図書館が利用できるようになって、15冊読んだ。
今月の1番は、
真山仁、海は見えるか。
6月最後に読んだ一冊。
横関大の誘拐屋のエチケットとも悩んだが、東日本大震災のあとの生活を、小学生の日常を背景に描いている。
悲劇だけに焦点をあてておらず、震災後に生きていくための選択。
それは大人都合だったり、子供の将来のためだったり。
共助と言うのは、理屈ではなく、数値化することができないが、確実に存在して人は多少の差はあってもそれに関わって生きていかなければいけないと再考させられる。

夏至を過ぎた

当たり前だが、夏至を過ぎれば日暮れが早くなっていく。
じゃあ、夏至の時が1番日没が遅いのか。
調べてみた。
日没時刻は夏至の6/22よりも、翌日以降から7/4までのほうが、一分ほど遅くなる。
夏至は日の出から日の入りまでの時間が1番長くなるというだけで、日没が1番遅い日というわけではない。
逆に日の出時刻が最も早いのは、6/6から6/20。
勘違いと言うのは、あるもんだね。
何故、日照時間が1番長くなるときの気温よりも、8月のほうが暑いのか。
地球が温まるまでの時間の分だけ、後にずれるのだと教えられた記憶がある。
夏至、夏に至ると書くわけだけど、24節気の夏は立夏。
5月の初め頃に立夏となる。
四季では立春、立夏、立秋、立冬とあるわけだが、至るとつくのは夏至と冬至。
日の出日の入りの時間に関する節気だと、春分と秋分が該当する。
春と秋に関しては、分ける。になる。
いったい何を分けるのか。
春至、秋至ではない。

レジ袋有料化

自分の子供の頃、個人商店で駄菓子などの買い物をしたときには、紙袋に入れてくれた。
紙袋は濡れると破れやすくなり、強度も高くない。
レジ袋が出始めた頃には、水濡れにも強く、強度もある。
小さくたためば嵩張らない。
いいこと尽くしの包装資材だ。
それがゴミとして問題になってきている。
海洋のマイクロプラスチック、燃焼で発生するダイオキシン。
江戸時代のおしろいには水銀や鉛などの有害物質が含まれていた。
今では考えられないし、誰もそんなおしろいは絶対に使わない。
戦後の昭和ですら、アスベストを使った建築物の恐ろしさを理解していなかった。
世の中、あとになってから、それはありえないだろうっていうものが出てくる。
レジ袋が、近い未来にそうならないとも限らない。
お金をとれば、使用量が減るというのは見事なまでにリアルな現実だ。
富山県では、2013年からスーパーでのレジ袋は有料だった。
エコバッグを持ち歩くことは、県民にとって常識となりつつある。
それでも、コンビニだったり、ドラッグストアだったりの一部の店舗では無料でレジ袋を提供していた。
それが7/1からは例外なくレジ袋が有料になる。
自然界で分解される素材の袋もあるが、強度やコスト面で従来のレジ袋には劣る。
有料化したところで、僅かな金額であれば払うことは何でもないという人も
いるだろう。
レジ袋の製造メーカーにとっては、死活問題。
物がなにか要らなくなれば、仕事が1つ以上無くなってしまう。
哀しい現実です。

口癖

無意識のうちによく使ってしまう言葉は誰にでもあることだろう。
有りがちなのは、えっと、じゃないでしょうか。
かく言う私もついつい口にしてます。
でもよく考えてみたら、えっとって言うのは、考えがまとまっていない時に使っている気がする。
二の句がすぐに継げないという時に、えっとと言ってしまうのだ。
他人の口癖で気になったなぁというのをいくつかあげよう。
結局。
この言葉を連発する人は結論を言えていない。
結局あなたは何が言いたいの?

なんとかのほうで。
私のほうで対応しますとか、何をゴマカシたいのか聞きたくなる。
私が対応します。だと、私がしなければいけないが、私のほうで対応しますと言えば、私がやるとは限らないってことか。
責任の所在をフワッとさせたいのだろうなと思う。
何か前向きな口癖とか無いものか。

2020年の釣行

今年も半分終わろうとしているが、今年の目標釣行回数を立てておきたい。
2019年は10回を目標にしていたが、そんなには行けなかった。
何を何回釣りに行くかと考えれば、キスが3回、ハゼが2回、カワハギが1回で合計6回がいいところだ。
とにかく、夏の釣りは辛い。
今年はキスを一度釣りに行ったのであと2回くらいか。
キスは寿司にして食べる。
ハゼは甘露煮が良い。
カワハギは刺身と鍋。
キスは夏、ハゼは10月、カワハギは11月。
そうして、今年の釣りシーズンが過ぎていく。

第2波だろ

東京都でのコロナウイルスの新規感染者が50人を超えてきた。
これは、濃厚接触者に対する積極的な検査実施の結果だと、官房長官は発表している。
だから、どうだと言うのだ。
腐ったミカンを見つけ、その周りのミカンを調べたら、やっぱり腐ったミカンがありました。予想通りの結果です。
だから、ミカン全部が腐る心配は無いですと言っているのか。
ならば、感染者数の発表など辞めてしまえばいい。
今日は感染者がいました。
あとは、国民一人一人がどのように行動すべきかは考えなさい。
どのくらいの感染力があって、どのくらいの重症化で、どのくらいが死ぬ。
どんな環境で感染しやすい。
必要な情報は第一波の時に提供しましたから、これからどのようにするのかは国民の判断に任せます。
で、良いじゃないか。
国民の審判を問う選挙だって丸投げされても容認するのだから、自分の命や財産は自分で守れと言われてもそれは大した責任放棄ではない。
その代わり、感染リスクを避けるために業務を行わない議員には、一般国民と同じだけのペナルティが必要だろう。議員報酬の減額、期末手当の不払い、リストラに当たる議員資格の剥奪。
不公平感は拭えない。

続、東京都知事選挙

下馬評では、現職の小池さんが圧勝するらしい。
コロナの第二波に対してどのような対策を取るのかという、公開討論がされたそうだ。
女帝の答えは、自衛を求めると言うことらしい。
役所はアホみたいに、自助、共助、公助の3助を語る。
1番機能すべきは自助。
その次が共助。
公助は最後らしい。
まぁ、セーフティネットと呼ばれるのが公助だと考えれば当然のことだ。
女帝は東京都には金が残っていないことを知っている。
そして、東京という都市を生き物だとすれば、体が無くなっても頭さえ残れば復活するモンスターだと思っている。
つまり、体が自衛できずに腐り落ちても、頭、すなわち都政が残れば、血肉となるお金は企業という蛇口が日本中から東京の頭を残すために集めてくれると考えているのじゃないか。
オンラインで高度な教育を成立させることが難しいと考えている限り、東京は日本における搾取者であり続け、その他は全て東京都の植民地であり続ける。
搾取者のトップは、皇帝、女帝なのだ。
皇帝選挙は間もなく始まる。

家族葬

新聞のお悔やみ欄を毎朝チェックする。
自治会長だった時の習慣だ。
以前からすこしは、葬儀は終了しましたと言うのはあった。
家族葬を済ませましたということだ。
これがコロナウイルスでの自粛期間には殆どの葬儀が家族葬で行われていた。
葬儀場での通夜や葬儀の案内を見ることはほとんど無かった。
最近では、家族の葬儀に際して弔電や花輪などを、手配する企業は減ってきている。
慶弔費として現金の支給はあっても、葬儀場で喪主の勤めている企業の花輪などを見ることも少なくなってきている。
寿命が伸びたおかげで、喪主自身が定年退職してしまっている場合もあるのでなおのこと、企業の名前での花輪は減少している。
業界も家族葬に対応するため、小規模な葬儀場を増やしてきている。
喪主として葬儀を執り行うことなど人生において数回だ。
一度も喪主にならない人もいるだろう。
葬儀屋も生活があるので、一般参列のある葬儀と家族葬での費用の差を少なくする工夫はしているだろう。
世知辛い世の中だ。