東京都で224人。
コロナ新規感染者の数だ。
都知事の会見では検査数、つまり母数が大きくなったため、感染者も増えるのは当然であり、緊急事態宣言発令はしないとのこと。
じゃあ、緊急事態宣言発令中の感染者数の収束はどうなのだ。
医療体制も逼迫し、検査数は十分な母数だったのか。
カイロ大学主席卒業されているのだから、統計で何かを示そうとするなら、正しい手法を用いなければいけない。
もちろん、ベストは全数検査だが、現実的ではない。
無作為抽出による、集合全体に対する検索結果でないのだから、感染者が多くいる地域での検査を行った結果では数字が悪くなるのは当然。
今のやり方で感染者の数をどうこう言ったって無意味、無駄。
やるべきは、正しい手法で感染者の増減を正確に把握することだ。
感染者の中で、無症状の人の割合がどの程度になるのか、それがわからないことには、発症者と濃厚接触者の検査結果による感染者の合計数だけで一喜一憂しても仕方ないと思うのだが。
なぜ、医療体制に余力がある時に感染者数予測の基礎となる検査を行わなかったのだろう。
例えば、休業依頼を受けた人達はPCR検査を条件に補償を行うとか、色々なやり方はあったはず。
何度も書いているが、休まなくて結構。
お客が行くかどうかはわかりません。
医療崩壊しないよう、コロナ患者の受入れも病院判断に任せます。
これが行政の最悪の対応シナリオだと思うのだが。
こうなると、感染者数は一定数に収まる。
ただし、それは実態にそぐわない数であり、明らかに感染している人も感染者としてカウントされない。
重症者が増えれば、社会の歯車が回らなくなる。
東京都から地方脱出する人がかつてないペースで増加。
感染者も日本中に散らばる。
感染者の受け入れは生産労働ではなく、社会的保護が必要な人ばかりになるから、地方の権限を高める道州制度実現の可能性も出てくる。
WITHコロナはこの国に明治維新以上の革命を呼ぶかも知れない。
都会からのUターンを望む地方都市が多いが、地方都市から吸い上げた人間を都会が吐き出した時に、受け入れるだけのキャパシティはあるのか?
首切り
景気が悪くなってきている。
まずは、非正規から仕事が無くなり、次に仕事のできない正社員。
その次に給与の高い管理職の順番だろうか。
管理職が先じゃないのかと思う方もいるだろうが、管理職には仕事のできない社員を辞めさせるという大事な仕事がある。
会社にしてみれば、一般社員を減らすのは企業イメージの観点からもかなり難易度の高いことだ。
管理職なんて、何とでも理由をつけて辞めさせられることができる。
困るのは、仕事のできない社員を辞めさせようとすると、仕事のできる社員に見限られてしまうことだ。
仕事ができる社員はどこに行っても受け入れられるので、よほどのことが無ければ今の会社に執着する必要がない。
皮肉なものだ。
残るのは、給与の高い管理職と使えない社員、それに極僅かの優秀な社員だ。
もはや、泥舟。
そう言えば、富士通が基本的に在宅ワークとする方向にかじをきつた。
在宅勤務手当として、月に5000円。
通勤手当は支払わず、オフィスを半分にする。
丸儲けだ。
医療体制
コロナへの感染者に対する医療体制にはまだ余力があるので、緊急事態宣言はしない。
正論だ。
病床数に余裕がある状況で、都民の経済活動を抑止するようなことは言いたくない。
感染者の増加を抑えることはききのわるいブレーキで走っている満員電車を止めるようなものだ。
いざ止まろうと思っても、惰性で電車はしばらくのあいだ走っていく。
ブレーキのききのわるい電車を早く止めるためには、満員電車に乗っている人に電車から降りてもらうしかない。
そうしないと、電車内の感染者は増え続けた挙げ句に、停車駅を超えて壁にぶつかってしまう。
電車内の感染者は治療されず、都民を守る壁である医療体制も崩壊してしまう。
満員電車をおりた都民は、そこから動かずにいてくださいと言われても、誰も水も食料も持っていないし、配給される目処もない。
仕方がないので、歩き続けて感染者を増やし続ける。
この物語の結末の1つとして考えられるのは、全員が感染して抗体ができ、ウイルス自体の驚異が無くなるということだ。
そこに辿り着くのが何人にひとりなのかは運次第といったところか。
電車を止めたところで、電車を使わずに歩き続ける人が増えることは確実で、感染者の出方は前回の時と同じにならないことも考えられる。
吉田拓郎の歌ではないが、古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう。
残酷な選択を迫るが、若い水夫がどうしたいのか、そのことが重要だと思うのだが。
東京都知事
小池さんが2期目となる都知事に選ばれた。
下馬評通りの結果だ。
政治家、特に首長に実務立案能力は必要ない。
必要なのはセンスと実行力だけと言っても過言ではないと思っている。
都民も小池さんの知事としての実績を買った。
それがこの結果だ。
だが、前回の選挙で掲げた小池さんの公約は実現されたのだろうか。
例えば多摩格差ゼロ。
誰が判断するのか。
前回の公約を誰も指摘しないのは何故か。
すべての候補者は公約を必ず達成すべき約束と捉えていないからだろうか。
そして万が一にも自分が当選した場合、公約を実現しなかった場合に責められることが無いようにとの考慮なのかも知れない。
結果、そんな考慮がちゃんちゃらおかしいと言える結果となった。
以前も書いたが、東京都の貯金は底をつきかけている。
この状況で休業要請を行うためには、都知事にとってインパクトが強く、キャッチーで、何を言いたいのかがほんの少しプライドの高めで声の大きな都民たちに物分りよく解ったふりをしないといけないと思わせる決め台詞が出てこないといけない。
次の東京某が出ないことを祈りたいが、とても良い言葉ができたら、その言葉を使うために何かしでかしそうな気がするのは、私だけだろうか。
今年も豪雨
熊本県の球磨川が氾濫した。
一月分の降雨が半日て降った。
巨大台風も、ゲリラ豪雨も、海水温の上昇が大きな原因となっているらしい。
海水温が低ければ、台風も雨雲も海から吸い上げる水分が少なくなる。
海水温が高ければ、海から大量の水蒸気を含む空気を吸い上げる。
それが降雨となる際に豪雨となる。
水温が上昇していると言っても、3度も4度も高くなっているわけではない。
僅か1度程度の上昇だ。
水1ccの温度を1度上昇されるのに1カロリ必要になる。
海水の量は膨大で、海が蓄えた熱量は想像を超えたエネルギ量だ。
そのエネルギーが形を変えて、豪雨になり、暴風になる。
水温が高いことと、豪雨の繋がりにピンと来ないかも知れないが、エネルギー保存の法則に基づいた被害になっていると考えたほうが良い。
水を気化させたエネルギーは水の重量に高さを掛け算したエネルギーに変わる。
それが地上に落下し、さらに低い場所に流れ、蓄えられたエネルギーを消費する。
この際には、物質の動く運動エネルギーに変化しているわけだ。
それが、他のモノを押し包み流そうとする。
流されるモノにエネルギーが作用して、それが何かにぶつかれば、そのエネルギはぶつかったものに伝わろうとし、耐えきれなければ吸収しきれなかったエネルギをそれ自身に蓄えて動き始める。
エネルギは最終的には熱となって消費され、その運動を停止する。
地面とな摩擦熱であったり、僅かではあるが水同士の摩擦や何かにぶつかることで熱が生じているはずなのだ。
温暖化は地球内部で生じたエネルギの蓄積だ。
熱は、宇宙空間に放出される。
宇宙には熱自体を伝える物質が存在しないので、分子運動によるエネルギ放出は起きない。
赤外線などの光線となって宇宙空間に放出されるが、地球を覆う空気が変化することで、赤外線となって放出される熱量は減ってしまう。
また、社会活動により生じる熱自体も増える一方だ。
エネルギー効率を高めて、発生させる熱を減らすことは重要なことなのだ。
スモールライフ
経済活動の面で考えれば、少ない人数での暮らしは経済効率は悪い。
なるべく、大仰なことはしないで、慎ましく生活していかざるをえない。
好む好まざるに関わらずスモールライフの選択となるだろう。
具体的には、どのような生活がスモールライフなのか。
何となくではあるが、安価な食材を選び、日の出日の入りに合わせた生活をし、暑ければなるべく薄着をして寒ければ厚着をして冷暖房の費用を抑える。
周りが現役世代と同じような暮らしをしていて、自分ばかりがスモールライフをしていたら、付き合いもしづらいだろう。
趣味はお金をかけないで、健康に良いものを。
まぁそんな暮らしも悪くは無いか。
コロナで社会の先行きが暗いと、そんなことばかり考えてしまう。
やはり、自分も若くないということか。
続々放送開始
本来なら、4月から放送開始予定だったドラマが続々と放送開始となりつつある。
コロナの感染防止のために、撮影ができずに、放送開始が未定だったものが、ようやく撮影再開の目処がたち、放送開始となってきている。
しかし、感染2波の影響を避けるために、ある程度撮り貯めてから放送を開始するものもあるようで、大ヒットドラマの半沢直樹などは、7月19日の放送開始予定となっている。
おそらくは、ほぼ最終話までの撮影を終わらせてからの放送開始とするためのスケジュールかも知れない。
こういった感染病による放送延期や中止も放送関係者には怖いが、キャストの不祥事による放送自粛も怖いだろう。
出演シーンの代役によるとりなおしや、編集のやり直しなど、人が関わる仕事では、たくさんの人が迷惑を被る。
もっとも、これは日常の仕事でも同じだ。
片付けられる仕事を放置したままにしておいて、休んでしまう。
もちろん、病気や体調不良でも仕事を休むなとは言えない。
しかし、切羽詰まってストレスで休むとかだとすれば、その人に仕事を任すことはできないだろう。
それもパワハラになるのだろうか。
だとすれば、不祥事を起こした芸人に自粛を求めるのもパワハラだ。
何だかいろいろなことが歪められて解釈される気がしてそちらの方が怖ろしい。
自分の声
誰もが、初めて自分の声を録音して聞いた時にはビックリしたことだろう。
ましてやそれが歌っている声なら尚更だ。
最近の若い人たちはどうなのかわからないが、大人になると自分の声を聞くことなんて無い。
仕事で、テープ起こしでもないが会議の内容を録音したものを聞くことがあった。
自分がホスト的な役割で進めたテレビ会議でのレビューの議事録を作るために聞いた。
本来なら、聞き手でいるだけの人が議事メモをとってくれるのが普通だと思うのだが、ワタシはパートナーと言うなの外注。つまり1番下っ端なので、誰もそんなことはしてくれない。
でも、立場上仕方ないと思っている。
勝手なことを議事録に適当に書かれても困るので、渡された1時間半の録画ファイルを全部確認しなおす。
議事録には指摘されたことと、それの対応について書いていくので会議時間の倍くらいの時間がかかる。
その後ベンダーに至急確認しなければいけないことをまとめてメールで投げたりでなんだかんだとさらに時間がかかった。
雑務から、設計までやらさせてもらっている。立場上仕方がない。
本題に戻ろう。
数十年ぶりに、自分の声を聞いた。
そして、怖ろしいことに気付いた。
詳しくは書けない。
自分にしかわからない心の声が録音されて聞こえているという話だ。
あぁ怖ろしい。
避難勧告と緊急事態宣言
この状況で自然災害による避難勧告が出たら、あなたは体育館などの施設に避難するだろうか。
ライフラインが確保されず、食料品や水などの支給が避難施設などの拠点にしかされないなら、避難するしか選択肢は無いかも知れない。
だが、実被害が出ていない状況で被害の発生確率だけはほぼ100%だと判っているが、いつ被害に合うかわからないとしたら、どうだろう。
避難場所は準備するが、食料品、水は支給できないので公助はアテにしないで自助、共助で何とかして下さい。
こんなことは、ほんの100年前には当たり前のことだった。
政治家の感覚が古いままなのか。
市民の感覚がユルクなり過ぎたのか。
搾り取られて、丸腰で災難に立ち向かうように仕向けられたと感じるか、裏をかいて、生き延びてやろうと考えるか。
まさに、ある意味、緊急事態に避難勧告に従うのか、選択は迫られている。
2020年6月の読書
図書館が利用できるようになって、15冊読んだ。
今月の1番は、
真山仁、海は見えるか。
6月最後に読んだ一冊。
横関大の誘拐屋のエチケットとも悩んだが、東日本大震災のあとの生活を、小学生の日常を背景に描いている。
悲劇だけに焦点をあてておらず、震災後に生きていくための選択。
それは大人都合だったり、子供の将来のためだったり。
共助と言うのは、理屈ではなく、数値化することができないが、確実に存在して人は多少の差はあってもそれに関わって生きていかなければいけないと再考させられる。